他の人が書かない洋楽レビュー

音楽雑誌を見ても自分の知りたい内容が載っていないので、自分で書いてみました。

ジョン・レノン | マインドゲームスをイマジンに解説。

マインド・ゲームス、邦題ヌートピア宣言は英13位、米で9位を記録したがいささか地味な印象で語られることが多い。

個人としては初めて聴いたジョン レノンのアルバムが本作であり、深い思い入れがある。

けれど聴いた際の印象はヒット曲然とした楽曲もなく地味なもので、大ヒットしなかったアルバムという色合いをつよく感じた。
Mind Gamesがシングルとしても米英ともにTop10に入っていないことにも溜飲を下げた。
ジョンの全ディスコグラフィーを聴いた後に本作の良さを見つけたようにおもう。
 
一方ジョンのファンにはこのアルバムが好きなひとが多いという印象もある。
 
またジョンのソロアルバムの中でメロディのよさという点ではもっとも優れた作品だと感じている。
参加した演奏者のアレンジ力も加わってのことではあるが。
ベースにゴードン エドワーズ
ギターにデヴィッド スピノザ
キーボードにケン アッシャー
ドラムスにジム ケルトナー(一部でリック マロッタ)
サクスフォーンにマイケル ブレッカー
こうした面々による演奏はそれまでのジョンのサウンドより洗練されたものになっている。
 
そんな立ち位置のむずかしいアルバム「Mind Games」を真正面ではなく、すこし違った角度からとらえてみようとするのが本記事の狙うところである。

 

 
まずアルバム「Mind Games」に至るまでのジョンの歩みはどのような流れだったか。
 
ビートルズ解散後、ジョンは「Plastic Ono Band」,「Imagine」と2作続けてヒットアルバムを発表した。Imagineはシングルとしても米3位を記録。
 
政治的、社会的な詩を持つこの曲がセールス面で成功したことでジョンは強気になったのだろう。
 
次作「Sometime In NewYork City」は社会主義的アルバムであり、しかもそれをヨーコとの連名で発表する。それを2枚組で出したのだ。
マイナス要素のトリプルパンチで当たるわけがなく、全米チャートからもあっという間に消え去る大失敗となる。
ジョージ ハリスンの「All Things Must Pass」が3枚組だったことに対する対抗をみせたのかもしれないが、もしこの作品がせめてシングルアルバムならば、そしてジョン単独作ならもう少しセールスは上がっただろうと思われる。
 
ビートルズとして大ヒットメーカーだったジョンとしては、この失敗は精神的にこたえたはずだ。
自分がやれば政治的アルバムでも売れるという自信は音楽ファンらにあまりにもあっさりとそっぽをむかれたのだ。
同時に世間のヨーコへの拒絶が決定的なものであることもこの失敗で認めざるをえなくなった。
 
2作連続で大失敗するわけにはいかない。
元ビートルのプライド、ヒットを出し続けるポールへのライヴァル心、話題を集めるジョージとリンゴの華々しさ。
 
こうした背景から、ジョンは次作はなんとしてでもヒット作にしなければならなかった。
しかし政治的アルバムが失敗したからといって、次作から政治色を一掃すればヒット欲しさに方向転換した軟弱者の烙印が待っている。
かと言ってファーストアルバムのような内省世界を激しい叫びで歌う作品はそうそう作れるものではない。
 
そこでジョンは実に人間臭い行動をとるのである。
アルバム「Imagine」に戻ったのだ。
「Imagine」と同じ質感のアルバムならある程度売れるだろうという無難な選択をとったのである。
また無理なくほどよい政治色、社会的な曲を組み入れる理由にもなる。これなら完全な方向転換にはなるまい。
 
もしくはこの「Imagine」の再現という案はヨーコによるものかもしれない。
クレジットはないもののヨーコは「Mind Games」にジョンの補佐として参加しているようなのだ。
Mind Games」では自身は陰にまわった、とのヨーコのコメントがある。
また本作のレコーディングより前にヨーコが「Feeling The Space」なるアルバムをほぼ同じメンバーでレコーディングしているが、そこにジョンが数曲で参加している。
したがってジョンのレコーディングの際にヨーコがまったく関わっていないとは考えにくい。
 
この「Imagine」の再現案を自身で考案したにしろ、ヨーコからの提案だったにしろ、ジョンが受け入れたという事実がA面に刻まれているのは事実である。
 
 
だからこそ我々が注目すべきはその曲順と曲調、詩の内容だ。
下は「Imagine」と「Mind Games」のA面収録曲である。
 
Imagine                           Mind Games
 
1 Imagine                         Mind Games
2 Crippled Inside            Tight As
3 Jealous Guy                 Aisumasen
                                         (I’mSorry)
4 It’s So Hard                  One Day(At A                
                                          Time)
5 I Don’t Wanna Be         Bring On The     
    A soldier Mama.          Lucie
   I Don’t WannaDie         (Freda People)
   
Mind・・・の方には6曲目にNutopian International Anthemという無音トラックがあるが、割愛。
以下は双方の共通項である。
 
1は言うまでもなく人類全体への平和、愛を呼びかけるもの。Mind Gamesでのスライドギターはジョージ ハリスンの影響か。
もとはMake Love,Not WarというタイトルだったがMind Gamesに変更したのは、政治的なタイトルを避けた結果ではないか。(本人はコメントでそうした旨のことは言ってはいないが。)
前作がヒットしていれば元タイトルのままで発表したのではないかと考えられる。
実際この曲に関しては元タイトルの方がハマっていたようにもおもう。
Mind Gamesではやや抽象的なのだ。
メッセージソングはタイトルで言いたいことをはっきりと言ってこそだが、この時期のジョンにはその自信はなかったのかもしれない。
 
2はどちらもアップテンポのロカビリーだが、なぜTight AsをRun For Your Lifeのような色気のある声で歌わず、わるふざけみたいな声で歌ったのか。その理由は単純にCrippled Insideのヴォーカルにあわせただけなのである。
しかしバディ ホリーの真似にしてはヨーコ臭さのほうが強い。
ジーン ヴィンセントを気取ればよかったものを、実にもったいない。
ジョンのファンが言及したがらない点だが、ソロ期におけるこうしたカッコ悪い声によるヴォーカルもセールスが思うように伸びなかった一因だと思われる。
 
3は双方ともにヨーコへの謝罪ラヴソングであり、ソウルバラッドのスタイルだ。
ジョンのソロにおけるバラッドが実はほとんどがソウルバラッドやR&Bテイストであることはもっと語られて然るべきである。
しかしながらAisumasenとはなんともタイトルが悪い。
 
エンディングのデヴィッド スピノザのギターソロの情感もデヴィッド ギルモアに共通するものがあり、歌詞が違えば名曲になったとおもえるのだが。
ピアノのフレーズや全体のサウンドからはファーストアルバムのGodを思わせる曲でもあり、
ジョンのヴォーカルもソウルフルですばらしい。それだけに、あと少しインスピレーションが足りていれば。
特に中間部分のヴォーカルは絶品の声を聴かせており、ジョンの天才はまちがいなく煌めこうとはしている。
 
4は曲調は異なるものの、どちらもブルーズでホーンがフィーチャーされている。
One Dayの方はバラッドスタイルでジャズっぽさも加わっているが、どちらも黒っぽいナンバーだ。
歌詞も人生をがんばろうという意味合いで共通している。
One Day At A Timeとはあせらずじっくりやっていこうというような表現である。
ジョンのソロキャリアにおける名曲のひとつにあげるべきだろう。
 
5は政治的な楽曲、曲調もミディアムのロックで合わせている。I Don’t Wanna・・・ではジョージのスライドギターが聴けたが、Bring・・・ではスニーキーピートがペダルスティールを弾いている。
ロックンロールフィールな曲で本作でも傑出したトラックだ。
アウトテイクで聴けるヴォーカルはシャウトを全面に出したテンションの高いもので、なぜこうしたヴォーカルを採用しなかったのか不思議なところである。
採用テイクのヴォーカルは軽く、歌詞の攻撃性に届いていないと感じる部分もあるからだ。
そうした男性的な強さを出さないようにしている趣きの陰にどうしてもヨーコによるフェミニズムの影響をみるのである。
案外ヨーコがジョンのシャウトに待ったをかけていたのではないか。
この曲のヨーコによるコメントには、こうした曲をSometime In・・・のように赤裸々に歌うのではなく、アーティスティックにうたおうとした、とある。
もうちょっとクールに・・・というすりあわせがあの軽いヴォーカルにつながったということになる。
ヨーコにとっては我が意を得たり、であったかもしれないが、ロックンロールのダイナミズムを減じてしまうとは。
やはりヨーコはロックを聴いてきたひとではないという背景と、前作の失敗からジョンが攻撃的アジテーションに対しややためらいを覚えていたという二点が要因なのだろう。
マインド・ゲームスが内省的な穏やかさを持ったアルバムになっていることからも攻撃性を控えたことがわかる。
 
こうして見ると「Mind Games」のA面は「Imagine」のA面を再現したImagineサイドだということが明白だ。
曲調、歌詞の方向、曲順まで合わせているのだから意図的なものであろう。
 
一方互いのB面を見ても、A面のような共通がみられない。
B面こそが実は純然たるMind Gamesサイドなのだ。
 
つまりアルバム「Mind Games」はImagineサイドとMind Gamesサイドによる半枚、と言える。
そしてこれこそが本作を半端にした原因だ。
Imagineサイドの徹底をみても、ジョンがA面に重きを置いたのは明白で、
ただそれによってImagineサイドは置きにいってしまった感がある。
本来のクリエイティヴィティが発揮しきれていないのである。
既発の作品に合わせようとすれば、おのずとアレンジにも想像力にも不要な限界を生んでしまうわけで、それらが邪魔になった結果のように感じる。
本作から感じるいまひとつ食い足りないという印象はこうしたクリエイティヴィティの欠如からだろう。
1〜5曲目までどれもいい曲だけれど、冴えを感じない。
 
ではB面はどうなのか。
7 Intuition   
8 Out The Blue
9 Only People 
10 I Know (I Know)
11 You Are Here
12 Meat City
 
曲の出来は優れており、特に7、8、10はソロ期における名曲。
7の落ちぶれレノンのたたずまい、我が人生を直視した詩、ほの切ないメロディはIn My Lifeとはまたちがう感動を贈ってくれる。
ロディックなベースライン、間奏のキーボードソロ、幻想的なジョンのヴォーカル。
本作のジャケットイメージに見事にリンクする。
 
8ではSexy Sadie的なコード進行に乗せてヨーコへの愛を歌っているが、決して楽観的にならず、いつ失うかもしれぬ、といった不安と狂おしさが充満する。すばらしいフィーリングである。
 
10のセンチメンタルな情感はまさにジョン レノン。I Should Have Known Betterのようである。我らがジョンは本質的にはあの頃と変わっていなかったのだ。
エンディングのビートルズ的泣きのメロディとヴォーカルのフレージングにその想いがさらに強まる。
 
9、11も佳曲。
9のエンディングではソウルフルな高音、
11ではJuliaをおもいださせるもやがかったヴォーカルを聴かせている。
 
しかしながら片側のサイドだけで充実を図るのはやはり困難だ。
ましてやA面にはImagineサイドの流れがある。
そこでB面はImagineサイドを意識して制作しなければならないという制限も生まれてくるが、時間をかけずに仕事をするスタイルのジョンには性に合わなかっただろう。
事実このセッションも7〜8月の短期セッションである。細かいところまではフォローできるはずもない。
 
Intuitionのような内省的なものもあれば、人類に向けたOnly Peopleがあり、かとおもえばヨーコへのラヴソングがいくつか、最後にはまったくサウンドの異なる強烈なMeat City。
Bサイドだけにここまで放り込むのはいくらなんでも詰め込みすぎである。
振り幅が広すぎるのだ。だからA面とのバランスがもうひとつ決まらない。
アルバム「Imagine」では全人類的なトラックはImagineのみで、あとは社会的な曲、内省的な曲、ヨーコへのラヴソング、ポールへの攻撃などが全10トラックの中でバランス良く収録だった。
これはフィル スペクターが要所を押さえたからこその仕上がりだ。ジョンとヨーコだけだと流れてしまって大味になるのだ。
 
 
ジョンはサウンドを全体で合わせることで調整しているので曲だけしか聴いていないとそれなりに聴こえる。(それでも一本調子の単調さは感じるが。)
しかしながら歌詞まで聴くと、あっちに行ったりこっちに行ったりと落ち着きがない。
内省的であったかとおもえば人類に高らかに「さあ、みんな行こうぜ!」とよびかけるのだ。
最後にはガチャガチャしたリズムのロックンロールMeat Cityで突然中国に行きたいと具体的に言ってくる。
理想の国ヌートピアのコンセプトも
現実の国名を出してしまうと興醒めだ。
つまり本人の中でもヌートピアという概念は曖昧だったのだ。
 
 
よくジョンのセルフプロデュースは詰めが甘いという記述を目にするが、具体的に言うと上にあげた内容をまとめたもの、ということになろう。
 
いっそ両面ともImagineサイドにすればよかったのだ。
B面の楽曲をみれば曲順と歌詞を変更
すればなんとかなったのではないのかとおもえる。
How Do You Sleep?のような曲は新たに作るしかないが、そもそも本作はImagineを狙って作ったアルバム。やればできただろう。
「Walls & Bridges」のSteel And GlassはHow Do You・・・の続編のような曲だが、これだって狙って作っているくらいなのだから。
もしくはB面収録曲の変更は必要だったはずだ。
Meat Cityはサウンドの振り幅からしてアルバムに入れる位置がなかった曲だ。シングルB面用にしてアルバムにはいれないほうがよかった。
それでもどうしてもいれるなら、Mind Gamesと人類的なテーマがかぶるOnly Peopleを外して没曲となったRock And Roll Peopleをいれるべきだったのだ。サウンドとしても共通するところがあるのだから。
 
そうすれば浮上してくるのがTight As、Bring On The Lucieであり、Rock And Roll People、Meat Cityの4曲で本作にロックンロールアルバムとしての色彩をもたらせたのだ。
聴衆がジョンに期待したのはロックンロールアルバムではなかったか。
本人もそれを意識したからこそ「Rock’N’Roll」というカヴァーアルバムを制作しようとしたのだろうし、本作に不必要なMeat Cityを苦し紛れにねじ込んだのも聴衆が期待するところをなんとかクリアーしようとしてのことだったのではないか。
 
ジョンは「どんな曲でも作れる。バナナの曲がほしい?できますよ。ジョン シンクレアはそんな感じでつくった曲だ。」と答えている。
本作はジョンのそうした職人的な部分で制作したアルバムであった。
ただ制作上のパートナーは必要だった。
 
ジョンのキャリア全体を見るとそれはヨーコでは荷が重かったようにおもう。
ヨーコはミュージシャンではないので、こうしようああしようとしてやった結果はヨーコの趣味の具現化にとどまってしまう。
たとえばブライアン イーノのようなノンミュージシャンならばあくまで音楽的美学や音楽的信念を抽出する。
制作面における格がちがう。
 
だからこそ専任のプロデューサーが必要になる。それがフィル スペクターだった。
ただジョンはスペクターに完全にプロデュースさせなかった。
ジョンとヨーコとの共同プロデュースにとどめている。
ジョンのコメントでも、ぼくらはフィルに好きにさせなかったと語っている。
これはジョン レノンを完全にプロデュースできるとおもうなよというジョンのプライドではなかったか。
フィルが問題が多かったとか常にスタジオにいたわけではないという背景もあるだろう。
ただそれだけではないと感じる。
 
ジョンは自身をプロデュースさせる許容がなかったのだ。ミュージシャンには意見を聞き、反映させたりとオープンだが、制作全体の主導は自身が掌握したかったのだ。
このあたりはビートルズのリーダーを自負しただけあって譲れないところだったか。
これはヨーコも同じくだろう。表現のあり方を他人に完全に主導されたくないのだ。
だがこれではプロデューサーも本領を発揮できまい。
 
ジョンのプロデュースならぜひしたいというプロデューサーはどれくらいいただろう。
たくさんいたかもしれない。だが現場でジョンに意見できるプロデューサーはどれくらいいただろう。
 
反対にジョンのプロデュースなんて恐れ多くてできないというプロデューサーも多かったかもしれない。
 
そう思うとあらためてフィル スペクターは別格だ。
彼はプロデュースを請負う度量があった。Sometime In・・・でも、Rock’N’Rollも(途中までとはいえ)ジョンからプロデュースを依頼されているのだから信頼もあったのだろう。
ほかに頼めるプロデューサーがいなかったから、というならそれはジョンとヨーコふたりの問題だ。
ジョンとヨーコのふたりを相手にプロデュース作業というのは、相当なストレスだとおもわれる。
 
フィルがスタジオ内で起した奇行や癇癪も、一概にフィルだけの問題と言っていいのかは外部にはわからない。
ジョンとヨーコの奇行や気性だってなかなかのものではないか。そのストレスのせいもあったのかもしれない。
 
 
結局ジョンが完全プロデュースを許せる人間はジョージ マーティンしかいなかったのだろうか。
いまやジョンがパートナーとして信頼できるのはフィル スペクターとヨーコしかいなかったのかとおもうとジョンの孤独を見る。
フィルに代わるプロデューサーと出会えていれば、とおもうかもしれない。
しかしここでもヨーコの存在がよぎる。
 
あるインタビューでジョンがデヴィッド ボウイを絶賛する箇所がある。
それに対しヨーコはジョンにあなたもおなじことができる、と言い聞かせるのだ。
ジョンはいや、ぼくにはとても彼みたいにはできない。とこたえる。
そして、ジョンはこう付け足している。
ヨーコはぼくになんでもできると吹き込むんだ、と。
ジョンは単純にボウイをリスペクトしているだけなのだが、
ヨーコはジョンの負けを認めたくないのだ。
 
おもうにヨーコのこのジョンへの執着は、ジョンを自身と同一視する精神性から来ているのではないか。それはジョンを認めた自身のプライドに直結するのだ。
ジョンが負けを認めれば、すなわちヨーコは自身の負けを認めることになる。だが本人は負けたくない。だからジョンを負けさせない。
こうしたジョンへの執着はジョンの死後、今日に至るまで変わっていない。ジョンの死後、年月が経つごとに強くなっているようにもおもう。
ジョンのリマスターには監修としていまだ名を連ねているのも、他人に完全に任せることができないゆえだろう。
ジョンはわたしのもの、という波動が波打つ。
ヨーコ自身がおもうジョン レノンでなければならないのだ。
 
もしフィルやマーティンに代わるプロデューサーがジョンと出会えていたとしても、かたわらにヨーコがいたらジョンとプロデューサーふたりの信頼関係の中に割り込んだのではないかと懸念してしまう。もちろんジョンのヨーコに対する依存もあってのことだが。
そして共同プロデューサーのポジションを与えるに至るのだ。
 
さまざまな理由から半端な1枚になってしまった「Mind Games」。
置きにいったA面とややとっ散らかったB面。
 
コンセプトアルバムでもなく、Imagineの再現は半分にとどまり、内省的な印象が強いのに正反対の歌詞を持つ曲が紛れている。
結局このアルバムはどういうアルバムなのかがはっきりしないのだ。
 
こうした混乱した作品でありながら同時に本作がファンにとってフレンドリーなのは、やはりメロディの良さに尽きる。
ジョンのソロアルバムは重いものが多いので、メロディが良く、アップビートな曲も含む本作は聴きやすい点で異色作。
B級っぽさが漂うアルバムな反面、他のアルバムよりもメロディックなジョン レノンがいる不思議な1枚。
ジョンの全ディスコグラフィーを聴いたあとに愛着が増すアルバムだ。
 
余談
Meat CityのSEはシングルヴァージョンとアルバムヴァージョンで異なっている。
シングルではCheck The Albumと言っており、アルバムでは別の言葉を言っている。
我らがジョンらしい言葉、である。(もちろん英語だ。)
どちらもエンジニアがセリフを言っており、逆回転で録音したものをテープスピードを上げて再生することであのSEになっているようだ。
ただ、ハーフスピードで逆再生したものを聴くと、わたしにはアルバムヴァージョンはあっかんべーとも聞こえる。
次作「Walls And Bridges」の見開きジャケットの中であっかんべーをしている写真があるのも実はこの暗喩なのではないかと勘繰っている。(考えすぎだろうとはおもうが、、、)
まったくジョンの理想郷は混沌としているのだ。
 

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