他の人が書かない洋楽レビュー

音楽雑誌を見ても自分の知りたい内容が載っていないので、自分で書いてみました。

ジョン レノンのソロが意外と売れなかった本当の理由①

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ジョン レノンのソロが意外と売れなかった本当の理由①

ジョン レノンの本格的なソロ活動は1970年から1980年だ。
ビートルズ在籍時にもソロシングルは発表しているので、ビートルズ解散後のソロを本格的ソロ活動と認識すべきだろう。
ビートルズのリーダーとして、当時の若者たちにとってカリスマだった。
そんなジョン レノンがソロになってから商業的人気が下がった。


ビートルズ在籍時の66年頃からジョンの曲はポールの大衆性を持った曲に比べ、硬派なロックファンに受けそうな曲、玄人受けする曲になっていった。
特にWhite Albumに顕著だが。
その作風がソロ以降にも見られるだけで、商業的人気は
そのころから実質変わっていないとする向きもあるかもしれない。


たしかに世間的にみれば、シングル、アルバムとも好成績だけれど、本人もレコード会社も元ビートルズの、それも看板だったミュージシャンのセールスとしては満足していなかったのではないか。
ビートルズでは出すシングル、出すアルバムがほとんど1位だった。
当時はチャート最高位が何位かということがなによりも
重要で、だからこそビートルズは格がちがう存在だったのだ。
チャート最高位が低くても、チャートインした期間が長ければロングヒットとして
リスナーや批評家から認められるというのは、元ビートルにはあてはまらない。


ましてや70年から73年くらいのあいだはポール、ジョージは大ヒットを連発していたし、リンゴも連続のシングルヒット、アルバムが米1位になったりで、実に華々しい。
ジョンはシングル、アルバムともにヒットはしていたが、彼らには及んでいなかったようにおもう。
案外 地味な成績なのだ。
米1位のシングルもジョンの獲得がもっともおそく74年、しかも人気絶頂のエルトン ジョンの客演に
助けられての1位。1位を維持したのは1週間のみ。
チャートでおもうようにふるわない現実がみてとれる。


あれだけのカリスマ ジョン レノンであれば、人気先行でもう少しヒットしてもよかったはずだし、
ビートルズの威光も残っていたのは他の元ビートルのセールスからもわかる。

作風が硬派であること、アヴァンギャルドなイヴェントも行ったことからジョンは反商業的なひと、と目されがちだが実際は自身のチャート順位に大いに注目していたひとだった。


ジョンは1975年のコメントでそれを示している。
僕は去年大きな発見をした。僕の曲はトップ10に登れないってことに気づいたんだ。もし僕の価値がトップ10に入れるかどうかなら、お手上げだ。トップ10を意識したら僕の曲は死んでしまう。芸術家ならだれでもトップ10に名を連ねる形での愛がほしくなるときはあるけれど。僕は変わり者の芸術家で、人気目当ての汚い競走馬じゃないってことだ。というようなものだ。


これは逆説的にどれだけヒットを狙っていたか、自身の曲に商業的側面を期待していたかをあらわしており、ある意味では負け惜しみで、ある意味では真実だとおもう。
なぜ ジョン レノンはソロになってから売り上げが落ちたのか。
そこには2つの要因があったようにおもう。
本記事ではまずその要因1を述べる。


要因1

なにもヨーコ オノに責任があるわけではないことを
断っておく。
Don’t Worry Kyokoなんてヘヴィロックの名曲だと認識している。
メタルが好きなひとはこのあたりの曲を気にいるんではないか。

ただ、当時はヨーコこそがビートルズ解散の原因とされたこと。(現在でもそう言うひとは数多い。)
女性差別が今の時代より強かったこと。
東洋人差別もまた今日より激しかったこと。
政治的、社会的発言や活動が過激だったこと。
前衛芸術を理解するひとが少なかったであろうこと。


これらの背景があったからこそ、ヨーコはあれだけヒールにされたのだとおもう。
レノンと結婚したことで権力を手にした日本人女性。
あたまのおかしい名ばかりの芸術家。というかんじだろうか。
メディアも彼女をそうした印象で伝えただろうし、多くのひとがその印象を鵜呑みにした結果といえる。
ジョージ ハリスン74年の北米ツアーが失敗の印象を持って伝えられたのと本質的におなじことなのである。

ただヨーコにとって悪かったのは、メディアに出たり、政治運動に参加したり、インタヴューに答えたりした際の印象ではないか。
常にとなりにはジョンがいる、
そしてヨーコは言いたいことを言う。
タバコをふかすときの表情などはかなりふてぶてしい。
これこそジョンと結婚したことでセレブリティになった日本人女性として映ったのではないか。
ジョンはソロになってから常にヨーコと活動しており、
ヨーコを快くおもわないひとたちにとってはまちがいなく
購買欲の低下につながったはずである。

ジョンのソロ第1作 「Plastic Ono Band」70年発表 
や 第2作 「Imagine」71年 は
ヨーコのヴォーカルは入っていないので、好成績だった。
それでもビートルズ解散後 初のソロとなった第1作は米6位。(ビートルズ在籍時にもPlastic Ono Band名義でソロシングルを3枚出している。)
いくら重い内容のアルバムとはいえ、ポール、ジョージが華々しくデビューアルバム1位を獲得しただけに落差を感じる。


第3作「Sometime In NewYork City」72年 はジョンとヨーコの連名でしかも急進的政治観を主張する作品だったため、セールスに明確に反映し、低調におわってしまう。

ジョンがセールスを気にしないひとであれば、次作も政治的アルバムにしたことだろう。
当時の彼らは政治運動に実に熱心だったからだ。
政治的な曲にはImagineのように本人が言うところのハチミツをまぶすやりかたをとることで、セールス回復を期待してもよかったはずだ。

だが、ジョンにはその余裕はなかったのだと推測する。
つぎも政治的アルバムにするなら、かならずヨーコと連名にしなければつじつまがあわず、それをすればセールスはあがらないのは証明された。
自身の曲が新聞になってしまっていた、という述懐はセールス低下がよほどショックだったからこその自己分析だ。
Bob Dylanがプロテストソングをやったときは、物語の中で告発していたからこそ深みがあったが、この時期のレノンの曲はあったことをただ口にして、怒っているだけで情報番組のコメンテーターのようである。

これではいけない、ということで次作「Mind Games」につながる。
政治色はうまくぼかし、メロディの優れた曲をあつめ、一流のセッションマンの演奏で高い音楽性を構築している。
2枚つづけてトップ10入りを逃すわけにはいかないという姿勢が明白だ。
こうしたジョンの行動は、マッカートニーが自身ひとりでつくった第1作 McCartneyのサウンドが批判され、第2作Ramで一流のセッションミュージシャンをあつめて制作したのと共通しており、興味深い。ポールと会った際に勧められたのではないか。
本作はトップ10にはなったものの、リスナーに強烈な印象を生むには至らなかった。
ジャケットには巨大なヨーコが横たわっているが、これも
セールスに響いたはずだ。
前作にもヨーコの姿がジャケットにあったことから、本来ならヨーコの姿は載せない方がセールスはあがっただろう。
ヨーコとの関係が悪くなっていた時期なので、載せることで、いかに大事な存在であるかを示したかったのか。

レノンは75年にカヴァーアルバム「 Rock'N'Roll」を、その後ベスト盤 「Shaved
Fish」を発表し、
5年間 業界から姿を消す。
息子ショーンの育児のためだが、自身の作品に対する限界を憂いたという面も含まれていたのではないかといまとなっては勘ぐってしまう。

ではなぜ、復帰作80年の「 Double Fantasy」はジョンとヨーコの連名なのか、
以前それでヒットを逃しているのに。

よく知られたエピソードとして、おそらく80年にジョンがB52sの「Rock Lobster」をバミューダで聴き、そこには明らかなヨーコの影響を聴くことができた。
そしてヨーコの曲が理解される時代が来たと思い、ヨーコにやりたい音楽をやることを促し、ふたりで復帰に至ったというものがある。


こうした流れの中で連名で出したのだろうが、細かく分解していくと、ヒットするかどうかの分析も同居しているようにおもう。

いままでさんざんけなされてきたヨーコの曲と発声、これが受ける時代が来たのなら、
連名で出してもヒットが見込める。
ヨーコ単体で出してもいままでのイメージからヒットは難しいが、レノンとの連名なら
ヨーコの曲も聴いてもらえる。
ヨーコの音楽も理解され、彼女のバックカタログも正当に評価される。
それを優れたものとして見抜いたレノンの慧眼も認められ、キャリアのリスタートとして
あらためてジョン レノンの格の違いを批評家にわからせることができる。
キャリアの復活となるアルバムだから、素直に考えれば人気先行でチャート上位にいける。
よって今後の作品も連名で出すのに必要な実績になりえる、というものだ。
「Double Fantasy 」はニューウェーブ的なヨーコの曲とオールドスクールなジョンが同居するおもしろさがあるだけに、その後のジョンのキャリアが見たかったと切に想う。

70年代におけるジョンのソロ活動を振り返ると、
あらためてヨーコの存在が常にレノンの真隣に座している感がある。
それほど彼らのつながりはつよかった。
繰り返しになるが、これはジョンのファンだけれどヨーコのことは快く受け入れられないひとたちにとっては足枷だったろう。
こう考えるとヨーコとの別居期間中に制作された
74年の「Walls&Bridges」が米1位を記録し、シングルもエルトンの客演があったとはいえ米1位にまで登ったことはあながち偶然とはおもえないのだ。

つまりジョンには彼を理解するファン、理解しようとするファンが少なかったのである。
逆に言えばヨーコはジョンのファンが乗り越えられないほどにジョンを囲ってしまったとも取れる。

②につづく

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